第10回若手奨励賞(領域11)
受賞者の発表
2015年6月の会告にしたがって,第10回若手奨励賞(領域11)の募集を行い,同年7月21日に締切りました.若手奨励賞領域11内規にしたがって設置された領域11の審査委員会による厳正な審査の結果,応募者の中から下記の4名の候補者が選考され,同年10月の物理学会理事会で受賞者として承認されました.ここでその受賞を祝福するとともに,領域11関係者に公示いたします.なお,対象論文などの情報については,物理学会の若手賞のWebサイトをご覧ください.
受賞者 | 受賞題目 |
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石本健太(京都大学白眉センター) | 粘性支配的な流体中の微生物の運動に関する研究 |
金澤輝代士(東京工業大学大学院総合理工学研究科) | 非ガウス型ノイズに駆動されるランジュバン方程式の理論 |
川口喬吾(ハーバード大学システム生物学科) | 非平衡統計力学の基礎理論と生物物理学への応用 |
河村洋史(国立研究開発法人海洋研究開発機構) | 無限自由度の振動的対流現象に関する位相縮約の理論 |
審査経過報告
本年度の若手奨励賞には領域11の広い分野から8名の応募があり、厳正な審査の結果、以下の4名への授賞を決定した。受賞者の専門分野は非平衡系2名、流体力学、力学系各1名である。領域の広がりと活気を表わす結果といえるだろう。
選考には領域代表が指名した9名の審査員(委員長を含む)があたった。1次審査では各応募者について委員長が選んだ2名の審査員が応募書類を吟味し査読レポートを作成した。それを参考にして、業績の重要さ・本人の貢献度などを中心に、全応募者の評価について審査員全員でメールによって徹底的に議論を重ねた。この議論をふまえ、2次審査では全審査員が全候補者を点数で(絶対)評価し、その平均点が高かった4名を受賞候補とした。審査員のなかに応募者の共同研究者・指導教員などが含まれている場合は「関係者」と認定し(委員長の求めがあれば参考意見を述べる以外は)審査には参加しないことを事前に取り決め、それに従った。
今年度は応募者のレベルがきわめて高く、審査委員会は苦渋の選択を迫られた。2次審査での4位と5位の評点は僅差だったが、事前の取り決めどおり、機械的に上位4名を推薦した。来年度以降、新たな応募者はもちろん、今回受賞を逃した応募者がより優れた業績を挙げて応募することを望んでいる。
受賞理由
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石本健太氏: 「粘性支配的な流体中の微生物の運動に関する研究」
近年、生命現象の物理学的な側面への関心の高まりと、微小物体のダイナミクスに関する測定系の進歩に伴って、バクテリア、精子などの微生物の流体内運動が注目されている。
流体中の微生物の運動に関しては「帆立貝定理(scallop theorem)」とよばれる強い力学的な制限があることが知られていた。帆立貝定理は、Stokes 流体中で慣性が無視できる微小物体では、形状変形が往復運動である限り、変形の一周期で物体が移動するのは不可能であることを示す。言い換えれば、微生物の遊泳には往復運動以外の形状変形が必要なのである。しかしこの定理には抽象的な証明はあるものの、十分な一般性と具体性をもつ分かりやすい証明は知られていなかった。
石本健太氏らは、まず周囲から力を受けない仮想的な微小物体を想定し、この微小物体との比較を通じて、流体中の微小物体の回転・平行移動・形状変形を定義することにより、一般的な往復的形状変形の場合について、変形の一周期で回転と平行移動がいずれも初期値に戻ることを証明した。これは帆立貝定理の厳密な証明であると同時に、微生物運動の遊泳を定量的に扱う摂動的理論の可能性を拓くものである。続いて、石本氏は、微生物運動への慣性の効果を、代表的な微生物モデルと複雑な摂動展開を用いて調べ、慣性効果によって実際に帆立貝定理が破れることや、形状変形の種類による慣性効果の違い、エネルギーの観点から見た最適な形状変形などを、現実の微生物の運動形態と比較して論じている。この結果は、先の証明法の有用性を示すものであると同時に、微生物運動の摂動的理論による理解の可能性を示している。さらに石本氏らは、微生物運動に対する平面境界の効果を、境界要素法を用いて数値的に調べ、力学系の軌道の安定性の観点から論じている。
これらの業績は、粘性流体中の変形運動体という複雑な物理系の挙動を、厳密な数理、摂動論、数値解の三つの相補的な方法を用いて多角的に明らかにしたものである。従来の微生物の運動の研究は主に実験的な解析や現象論的モデルが主だったが、石本氏の研究は、理論的側面から微生物運動に対する精密な理解を促進するものであり、物理学から生物研究に貢献する基礎研究として価値が高い。これらの業績の一部は共同研究の結果だが、石本氏は当初から研究を主導してきたと考えられる。石本健太氏の優れた業績は日本物理学会若手奨励賞にふさわしい。 -
金澤輝代士氏: 「非ガウス型ノイズに駆動されるランジュバン方程式の理論」
金澤輝代士氏は、アインシュタインに始まる「ゆらぎの理論」に関して、非ガウス性という切り口でオリジナリティの高い優れた業績を挙げた。
水中のコロイド粒子のような、周囲の熱平衡にある環境と相互作用する力学的自由度は、ガウス型ノイズに駆動されるランジュバン方程式で記述されることが知られている。さらに、環境が熱平衡になくても、多くの場合には(中心極限定理のため)環境からの力はガウス型のノイズで記述されることもわかっている。一方、近年の非平衡系での実験では、非ガウス型のノイズが重要になってくる局面があることが報告されていた。
金澤氏らは、非ガウス型のノイズを含むランジュバン方程式の理論を体系的に発展させた。かれらは、まず、注目する物理系が熱平衡環境と非平衡の環境の双方に接触している状況で適切な極限操作をおこなえば、非ガウス型白色ノイズに駆動されるランジュバン方程式(以下では、「非ガウス型ランジュバン方程式」と呼ぶ)が導かれることが示した。この構成を粉体系で実現する提案もおこなっている。これは、非ガウス型ランジュバン方程式の初めての系統的な導出であり、非平衡統計力学の基礎的な理論としても重要な意義をもっている。金澤氏らは、非ガウス型ランジュバン方程式そのものについての数理的な解析を進め、摂動的に求めた近似解を無限次まで足し合わせることで解析的な解を構成している。さらに、非ガウス型ノイズによって駆動される確率過程における「熱」と「仕事」の定式化をおこなった。これによって熱平衡にない環境と接触する物理系において熱力学的現象論を展開する一つの枠組みが得られたことになる。
ガウス型のノイズによって駆動される確率過程の研究には長い歴史がありきわめて多くの知見が得られている。それに反して非ガウス型のノイズを含む系の研究は(個別の例の研究はあったが)系統的には進められておらず、金澤氏らの一連のアプローチが初めての体系的な研究だったと言っていいだろう。基礎的な、あるいは、数理的な観点からだけでもきわめて重要な研究だといえる。さらに、金澤氏らの研究では、粉体系や生体系など、平衡統計力学の枠組みでは捉えきれない非平衡の系への応用も積極的に議論していることは注目に値する。今後、非ガウス型のノイズに着目した実験的な研究が進められる際にも重要な指針を与えるだろう。
金澤氏の研究は他の研究者との共同で進められてきたが、このテーマは金澤氏が積極的に切り拓き中心になって進めてきたものだと考えられる。金澤輝代士氏の優れた業績は日本物理学会若手奨励賞にふさわしい。 -
川口喬吾氏: 「非平衡統計力学の基礎理論と生物物理学への応用」
川口喬吾氏の研究成果は、大きく見れば非平衡統計力学に関わるが、二つの独立したテーマに分けられる。
一つ目のテーマは「非平衡統計力学における粗視化」の問題である。近年の非平衡統計力学の発展により、非平衡系でのエントロピー生成の果たす本質的な役割が明らかにされてきた。特に、一般の非平衡過程においてエントロピー生成が「ゆらぎの定理」と呼ばれる等式を満たすこと、また、過剰エントロピー生成に着目することで非平衡定常状態どうしを結ぶ操作についても熱力学関係式が構成できることが見出された。しかし、非平衡系の理論的モデルで何らかの関係式が示されたとして、一般には、このモデルを記述する全ての自由度が実験で観測できるわけではない。モデルの一部の自由度のみを観測したとき、もとの非平衡統計力学の関係式が成立するのか、あるいは、成立するとして何らかの修正を受けるのか? これが粗視化の問題である。
川口氏らは確率過程モデルを詳細に解析することで、二つの状況において、粗視化の問題をほぼ解決した。一つは、非平衡定常状態間の遷移を扱う非平衡定常熱力学において、粗視化をおこなったとき、非平衡エントロピーの増分と過剰エントロピー生成の和が保存されるという結果である。これは粗視化によって非平衡定常熱力学が「生き残る」ことを示している。もう一つは、有名な「ゆらぎの定理」についての結果であり、粗視化の後に「ゆらぎの定理」が成立する場合と成立しない場合があることを示し、そのための条件も明確にしている。
二つ目のテーマは生体分子モーターの確率過程モデルの構築である。生体内で動作する様々な分子機械は非平衡統計力学の応用対象の候補と見られている。これらの系では、エネルギーのやりとりの単位である ATP の加水分解エネルギーが熱ゆらぎのエネルギー kT の二十倍程度であり、非平衡性と大きなゆらぎの双方が重要な役割を果たすと期待される。
川口氏らは、近年の精密な実験結果にもとづいて、生体内の代表的な回転分子モーターである F1 の確率過程モデルを提唱した。彼らのモデルは単に分子モーターが回ることを再現するだけでなく、内部散逸が極端に小さいとする実験結果を構造変化機構の非対称性を仮定することで定量的に説明している。さらに、この仮定の妥当性を検証するための実験も提示しており、生物物理学と統計物理学の新たな交流を予感させる。
以上のように、川口氏は、大学院生時代に非平衡統計力学の基礎と生物物理学への応用に関わる非凡な仕事を手がけた。これらの多彩な研究を主導して進めた川口氏は、若手の研究者としては突出しており、日本物理学会若手奨励賞にふさわしい。 -
河村洋史氏: 「無限自由度の振動的対流現象に関する位相縮約の理論」
非線形力学系における自励振動とそれらの同期現象は、物理、生命、化学、工学、さらには気象などの分野で幅広く観察されている。自然界における普遍的な現象の代表の一つと言っていいだろう。このような非線形の振動現象を理論的に取り扱うための強力な手法として位相縮約があり、振動化学反応における同期やパターン形成など様々な現象の解明に大きな役割を果たしてきた。位相縮約とは、弱い摂動を受ける非線形の発展方程式を、振動の位相のみに着目した一次元の簡潔な位相方程式に系統的に近似する手法である。しかし、従来の位相縮約理論の適用対象は常微分方程式で記述される低次元の力学系に限られ、偏微分方程式で記述される無限次元力学系のリミットサイクル振動現象には適用できなかった。
河村洋史氏らは、Hele-Shawセル中の振動対流を記述する流体方程式のリミットサイクル解に対する位相縮約理論を新たに発展させた。流体方程式は偏微分方程式であり、力学系としては無限次元の相空間を持つ。しかし、その振動対流状態に関しては、本質的な自由度は振動の位相の一自由度のみであり、河村氏の手法によって無限次元の流体方程式を一次元の位相方程式に縮約することが可能となる。その結果、低次元系の非線形振動に対して行われてきた位相方程式に基づく従来の様々な解析が振動対流に対しても適用できることになり、振動対流現象の解析が大きく進展することが期待される。
河村氏らは、まず、振動対流を記述する方程式から一変数の位相方程式を理論的に導出し、その応用として熱伝導を介して弱く結合した振動対流を示すセル間に生じる同期ダイナミクスを解析した。これは振動対流に対する位相方程式を初めて導出したものであり、対流の位相感受関数の従う随伴偏微分方程式が導出され、これを解いて求めた振動対流の応答特性から振動対流間に生じる同期特性が明らかにされている。続いて、河村氏らは導出した位相方程式を用いて振動対流間に共通ノイズ外力によって生じる同期現象を解析し、最適な外力の与え方等を議論した。さらに、河村氏らは振動対流が二つの位相モードを持つリミットトーラス状態においても適用できるように位相縮約理論自体を拡張し、それらのより複雑な振動対流間の同期ダイナミクスを解析した。いずれの仕事においても理論的な結果と直接数値計算の結果は良い一致を示し、振動対流に対する位相縮約理論の有効性を示すとともに、そのような同期現象が実験的に観察される可能性を示している。
河村氏のこれらの業績は、振動対流という複雑な力学系に対する新たな理論的アプローチを提案するとともに、より一般に、無限次元の力学系である偏微分方程式に対して、その非線形振動解に対して従来の低次元の力学系と同様の解析が可能であることを端的に示す例となっており、今後のさらなる発展が期待される。一連の業績は共同研究の成果だが、河村氏は一貫して研究を主導してきたと考えられる。河村洋史氏の優れた業績は日本物理学会若手奨励賞にふさわしい。
授賞式
第71回年次大会において領域11の若手奨励賞授賞式が行われました。今回は 石本健太氏(京都大学白眉センター)、 金澤輝代士氏(東京工業大学大学院総合理工学研究科)、 川口喬吾氏(ハーバード大学システム生物学科)、 河村洋史氏(国立研究開発法人海洋研究開発機構) の4名が受賞され、その受賞講演もあわせて行われました。
日本物理学会 領域11